アラキ工務店 京都市右京区:京町家、古民家、大工さんと建てる家

アラキ工務店 株式会社 アラキ工務店

京町家に出入する今の大工と昔の大工

日時:2000年5月9日17:00~
会場:小泉家の四条京町家

 町家に携わる人々を招き、その魅力を語り合うという目的で、「京都こだわりの会」の主催で開催されました。当日は、同会の会員を中心に約100人が押しかけ、大変なにぎわいでした。
なかには、遠く東京や岡山から参加した者もいて大変盛況でした。 当日は、第二回ということで、町家見学・ジャズ鑑賞?の後、弊社の社長が約1時間講演いたしました。

腕のたつ職人のする仕事は今も昔も一緒

 昔の大工と今の大工と何が違うのか…といっても、何も違わないと思いますね。ほんとうに腕のたつ職人がする仕事というのは、今も昔も一緒です(笑)。ただ、こうした京町家を建てなくなったということだと思いますね。

 ちょっと、今日の演題からはそれるかもしれませんが、レジメにそって昔の大工がどんな役割を果たしていたのかをお話したいと思います。
 昔の大工は、自分の仕事に自信をもっておりましたから、棟上の日にわざわざ現場にいったりはしないものでした。棟上のことを当時は「かわおこし」と呼んでいたのですが、私の子供のころの記憶では、"てったい"の人が、親父に向かって「おやっさん、かわきましたで~~」といっていましたね。
 うちの親父は腕のたつ大工でした。当時「木殺しの勇さん」といって、中京では有名でしたね。「木殺し」というのはどういうことかというと、「台を叩いて木を沈め、鴨居を入れてからすっと水を拭くと、きっちりしたいい仕事が出来る。そういう職人」という意味です。そういう親父が「建前の日は大工が出るもんではない。手伝いに任せるもんだ」といってたのを今でも覚えております。
 今、この町家のへいごし(棟上を記念して屋根裏に飾っておく木製の板)を見せていただきましたが、当時はこうしたものを少なくとも3つは立てておりました。
 1つはもちろん建てた家の棟に取り付ける。1本は大工が、もう1本は手伝いが持ち帰ったものです。へいごしは、縁起がいいものですから、おせっさんの親戚から「欲しい」といわれ、遠くでも運んでいったものです。
 親戚とかの家にいくのは、なにもへいごしを渡すときだけではありません。
 お店におめでたいことがあれば、たとえば、子供が生まれたとか、結婚したとか、そういうことがあれば、おせっさんに替わって近所の親戚を廻ったものです。

丁稚奉公

 大工というものは、まず、5年丁稚奉公をします。私は、5年間の丁稚奉公の後、世話になった工務店に御礼奉公をしたものです。
 その工務店は、私の家から2町位しか離れていないところでした。私が出入していたお店には、こいのぼりたてや、おひなさんの準備とかをしてました。また、梅雨の前には、樋の掃除をしたり、夏祭りの世話をしたり、そういったことを一通りやりました。
 そうして、普段から手伝いをしていると、家の具合が悪くなったらわかるんですね。そういうときには、親方に話をして、家のメンテをしたものです。
 今ではすっかりやらなくなりましたが、梅雨前後には、「衛生掃除」といって、昔は年1回畳をめくってそこら中掃除をしたものです。そういう日は、仕事を休んでやらされました。(笑) おせっさんといっても、遠いところにあるわけではなく、町内の近いところが多かったので、そうした手伝いが出来るんですね。
 また、お正月前になると、大和天井の上にあるおたなの紅柄塗の手入をやらされました。乾かした練墨に種油を入れて、おせっさんの手の届かないところを雑巾で拭くんです。これがもう嫌で嫌でね。爪の間に練墨が入って取れなくなるんですよ。
 でも、正月前なんで、お餅つきを手伝うと、それがきれいに取れるんです。(爆)
 汚い話ですね。(笑)
 さて、そうして、おせっさんの家にしょっちゅう出入していると、さっきも言ったようにいろいろと痛んでるところがわかるんですが、家を直すのにわざわざ材料を調達に行ったりはしませんでした。どこの家も木過に物置があって、そこに一定の材料が入っていたんですね。それで、親方はそこに何が入っているか、いつも頭にありますんで、直ぐに手当が出来たものです。
 小屋裏に入っている材料も、今みたいに寸法がきっちり決まっているわけではなく、たとえば3寸角の材料を6つに切ったのを六つ切りとかいってました。設計する時も材料のことを考えてやってましたね。昔は木というものは、貴重品でしたから、材料の無駄をなくすように考えたものです。
 御礼奉公がすんで職人として認められるとハッピがもらえます。私が今きているこういうやつです。このハッピを紋付・袴の上に羽織るんです。ハッピを着れるというのは大変なことで、当時お金が足りなくなると、質屋のところにいって、ハッピでお金を借りたものです。でも、そうしたハッピが、ウインドーにぶら下げられると、親方が質から直ぐ出しに行ったものです。(笑)
 お店の一番番頭くらいになると、自分工務店のではなく、出入のお店のハッピがもらえるんですね。
 こうして、お店といつもつきあっているものですから、昔の大工は、お店から御中元や御歳暮をもらったものです。そのかわりに最後までお店に尽くすという感覚が生まれたんですね。

おせっさんとのお付き合い

 当時の大工は、今みたいに電動工具なんかありませんから、結構腕が疲れたものです。
 腕が疲れる順番に"1きり錐2のこ鋸3かんな鉋"といったものですが、もう今は全部電動がありますから、大分楽が出来るようになりましたね。

 こうして、話をしていると、えらく大工とおせっさんのふれあいが多いなあと思われるかもしれませんね。当時の大工の仕事というのは、お店が7軒くらいあればもう生活が出来ました。お店1軒が借家を5軒から多いところは20件くらい持ってました。ですから、今のわたしらみたいに、新しいおせっさんをつぎつぎと作って行く…というのではなく、そのお店のメンテだけしていれば、仕事はいつもあったんですね。もちろん、借家をいっぱいもっているわけですから、お店も結構建築に詳しくなるわけで、こっちもいいかげんなことが出来なかったわけです。

 それだけお店としょっちゅう会っているわけですから、もう大工だけで何でもしましたね。水廻りから、左官の仕事から、屋根拭きからいろいろやりました。

 でも、終戦後、税の改革があって、そういうお店というのがなくなっていきました。政府も持ち家を奨励し、借家はどんどん減っていきましたね。また、「マイホームブーム」とかで、どんどん持ち家のニーズが増えていったものですから、相対的に大工の手が足りなくなり、お店に頼らないようになっていったのです。

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