アラキ工務店 京都市右京区:京町家、古民家、大工さんと建てる家

アラキ工務店 株式会社 アラキ工務店

Oさんと年責

住所、名前はいずれも仮名です

わたしが初めて拠点長にでたときの話しです。

 わたしももう31歳になっておりました。入社以来ずーーっと財務畑を歩いており、このままでは、「一生保険分野では働けない!」という危機感が募っておりました。
 保険の知識がないものをいきなり本部の枢要部門に配置してくれません。
 そこで、営業の最前線にでて成功すれば、道は開けるのではないかと思い、当時の課長に言い続けておりました。
 まあ、失敗してももともとだという思いでした。
 財務分野から拠点長にでる者は年間数えるほどでしたが、まあ、人生は一度きりだからと思い、自ら手を挙げることにしたのです。

 私が配置された、塩見支部は『首都圏営業本部』に属しておりましたが、首都圏とは名ばかりの田園地帯で、人口2万人の小さな町でした。営業職員さんは27人。毎月換算4件以上の実績をあげる職員さんが7人もいて、「こんな過疎の町でどこで成績を挙げてくるんだろう??」と思ったものです。
 訳もわからず、一所懸命自分なりに頑張りました。
 職員さんも実質20名もおらず、入社2年未満の職員さんが0という状態が半年ほど続きました。
 6月は田植え、10月は稲刈りで多くの職員さんが会社を休むので、田んぼに手伝いにいきながら、「○○さん1件頼むね」なーんてこともやりました。
 9月は塩見阿波踊りがあるので、毎朝、体操のかわりに阿波踊りの練習をやったりしました。

 そうこうしているうちに1月も終わりになりました。
 拠点には年間やらなければならない目標数字があります。それが年責です。
 年責をやるかやらないかで、拠点の評価が決まるのです。  1月末で遂行率は72%……
 残り28%です。  2月は『重要月』といって、『普段の3倍の活動をして、生命保険の普及に努める月』です。
 「20%近くはできるだろう」と、思って甘く構えていたら14%そこそこに終わってしまいました。  あと14%も残ってる………
 その年は景気が下り坂になっている年。しかし、年間目標は当然前年度実績をベースに作られているため、年責ができるのは20%あるかないかという年でした。塩見支部が属していた支社内でも年責ができるのは、14支部中2~4支部くらいといわれていました。

 それだけ、やりあげれば価値があるという目標です。
 しかし、職員さんは、2月戦でそうとう疲れておりましたし、3月も2月と同じ数字ができるなんて……と、半信半疑で3月戦が始まりました。
 当然なかなか数字は伸びません。
 そうして、忘れもしない3月14日「年責達成記念パーティ」が開催されました。
 もちろん、年責を達成するかどうかは3月24日(生保業界の〆切日)の話。要は、みんなで3月の〆切数字を宣言しあうことで自分自身にプレッシャーをかけるパーティな訳です。
 その日はまだ、7%しか見えておらず、あと7%も残っています。

 当日の朝、職員さんに見こみを聞いても、2%ほどしか積み上げることができませんでした。
 わたしは、できない数字を言うのは抵抗があったので、壇上ではみんなの言った数字をそのまま足して「95%」で報告したのです。
 100%で言えないことは悔しかったのですが、職員さんに無理をさせるのは自分の経営スタンスに反します。「ああーー、今年はできないのかなあ~~」と、複雑な気分で壇上をおりました。

 その後、隣の支所(一般拠点より規模が小さい営業所)の拠点長とたまたまトイレで隣になりました。
 「塩見支部さん、なんで100%で言わなかったんですか?」と彼。
 「う~ん。朝、見こみ聞いたらとてもじゃないけど100%いかなかったからねえ……。後で数字を切るのは嫌だからね」と私。
 「そうですかあ。僕はもう職員さんに聞くのはやめて、100言っちゃいましたよ (^^ゞ。もうここまできたら気合ですからねえ」と彼。
 「うーんそんなもんかなあ」と私。
 そこで、彼はぽつっとこう言ったのです。「じゃあ、塩見支部さんは今年は年責できませんねぇ……」
 彼の拠点も2月末で14%残しているほぼ同じ遂行率の拠点です。
 彼はまだ、拠点長代理で、私よりも年下です。
 もう、腹がたつやら悔しいやら、なんとも情けない気分になり、一晩中むかむか むかむか……としておりました。

 私は翌日の朝礼で、「実は隣の中村支所長に『塩見支部さんは年責できませんねえ』と言われた。本当に悔しい。みんなはどう思う?」と、自分の気持ちをそのままみんなに訴えました。
 みんなだまったまま下を向いておりました。
 私はみんなに今の見こみを聞きましたが、そんな突然言われても急に数字は増えません。みんな悔しい気持ちは同じだけど、見込みが無いのでどうしようもないのです。
 そんなとき、突然Oさんが立ちあがって言いました。「皆さん。年責やるんですか? やらないんですか?」
 Oさんは支部のリーダー的存在で、女手ひとつで息子を育てた苦労人です。
 Oさんは続けて言いました。「せっかく年責に手が届くところまできたじゃないですか。後はみんなの気持ち一つやな」
 最後にOさんはこう続けました。「支部長さん。私たちを信じてください。みんなも年責、やりましょうや」 その日はそれで朝礼は終わりました。

 それでも、なかなか数字が伸びませんでした。そして、ついに3月24日、〆切の日を迎えました。
 私は夕方、みんなが帰ってくるのを待っておりました。2時ごろからぽつぽつと職員さんが帰ってきます。帰ってくるたびに私は黒板に商品名と換算Sを書いていきました。
 「子ども保険1件300万」
 「年金1件720万」
 「単体終身1件800万」……
 大きい契約はなかなかでてきません。それだけみんな苦労しているんだなあと感じました。
 「定期保険1件800万」
 「養老1件300万」
 でも、みんなが帰社するたび、黒板に少しづつ数字が埋まっていきます。先に帰ってきた人もどこまでいくか心配で、誰も家に帰ろうとしませんでした。
 黒板が契約でいっぱいになっていきます。みんな2件から3件の契約をもらってきます。
 私は、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
 最後の人が帰ってきました。
 「定期付終身1.2件1280万」
 「支部長さん。何%になりました?」
 私は電卓を片手に言いました。「97%……」
 あと、3%………
 どうしよう……

 「やるだけやったんだからいいんじゃないの」という声もありました。みんなも疲れています。  でも、私は「僕は年責をやりたい。3月いっぱいは稟議が効くと思う。できあがるまで、3月成績で追いこんでくれないか」と訴えました。
 すると、Oさんは「やるべぇ」といって飛び出していきました。
 ほかの職員さんも無言で出て行きます。でもみんな、設計書をもってでかけていきました。
 他の支部は「新年度スタートダッシュ」とかいって、新年度成績をどんどん入れていきましたが、私の支部はいつまでも新年度成績は0%のままです。
 でも、なんとか、3月31日までかかって100%までもっていきました。

 当時は加算体形が複雑で、職員さんが積み上げる換算S以外に「地区S」とか「基盤S」とか「商品加算S」とかあって、正確には数字が把握できない年でした。
 ほんとうに年責をやりあげたかどうかは、4月16日のファイル確定日という日を待たなくてはわかりません。
 忘れもしない、4月16日。朝早く支部に出勤し、オンライン端末を立ち上げ、「拠点業績確定報」のページをプリントしました。
 紙にはこう印字されていました。
 「100.1%……」
 私は、職員さんみんなに感謝し、一人、涙したのでした。

このページの先頭に戻る